『本当は私だって数学が好きだったんだ』

 

 

『本当は私だって数学が好きだったんだ』

 

タイトルに惹かれ入荷情報を確認してすぐに書店へ買いに行った.表紙には数学を教える使命と学ぶ心構えと書かれていて,すぐに自分に必要な書物だと思った.

大学の1学期を終えてから,講義内容や試験,進めるべきスピードに対して自分の理解が追いついていないまま進むことに大きな焦りを感じていた.ゆっくりと心行くまで勉学をするためにいまの大学に入学したのだけれど,その目的を遠くに追いやっているような気がしていた.

巷のよくある解決策の一つとして,理解が追いつかないのなら追いつける程度の勉強量をこなせばいいというのがあるのだけれど,これは受験勉強で失敗したことの一つなのでたぶんやることはない.必要ならどこまでも勉強はするのだけど.ただ,特に数学において腑に落ちてかつその先を覘けるような理解を得るために,勉強量をこなすという手段はあまりよくないような気がしている(その手段が合う人ももちろんいる).

僕にはやはり理解するまで学び続けることがもっとも合っているのだろうとここずっと思い続けていた.

ただこの方法はとんでもなく時間がかかる.理解するのに(そもそも理解するとはどういうことか辺りの問題があるかもしれないが)数十分でできる場合もあるしはたまた数年,数十年の時間がかかることもあるかもしれない.

学校教育や受験勉強の中で,常に急ぐ,できる限り速くといったような意識を持つことが多かったけれど,新ためて急がない,どしりと構えてやるみたいな意識に変えてゆきたいと思った.

大学に入ってからの焦りがどこにも所属せずに学んできた時には起こらなかったことなのが面白い.多かれ少なかれ外の圧力が存在するというのは,利点もあるが構造的に欠点も多く存在することを認識することができた.

また,順序的に学問を習得することへの憧れがあったのだけど,主に履修登録の推奨順序において,必ずしもそれがほんとうに自分に合った順序ではないことも常に留意しておきたい.ほんとうの体系化は自分でしかできない気がするし,それが血肉にするということなんだろうとも思う.

 

数学教育に関する書籍はいままでに遠山啓(1909-1979),小平邦彦先生(1915-1997)のものを読んだことがあるのだけど,どちらも少し時代が古い印象を受けた.『本当は私だって数学が好きだったんだ』は現行の教育に即しているので共感できる点で読みやすさがあるような気がする.

 

この本を契機に長岡先生について知ったのだけど,よく見たら今期取っている講義を担当されていた(人の名前を覚えるのが苦手なため全く気づかなかった).他の講義と少し質が異なるなと思っていたのだけど,読み終えてから見る講義はいままでと少し見方が異なってくるような気がしている.

 

#降雪のない窓を見る