個展 物ノ瀞

12月6日火曜日。最近はついったーで見続けていた柴田高志さんの絵を見に行く機会に恵まれた。

 

 

柴田さんのこのツイートを13時過ぎからの時間がとてもよいものだと勘違いをして駆け込んだ。実際は12時からのオープン直後がおすすめのよう。

 

柴田さんの絵を初めて見た時、おぼろげで定かではない空間の中にあるしっかりとした芯のようなものを感じた。あたたかさ、力強さ、やわらかさが打ち消し合わずに紡がれているような印象。

 

どうしても実際の絵を見てみたくて、Boothに出品されていた絵を買った。「箱絵-19」という絵。亡くなった父が登山が好きだったのだが、その父が見ていた風景が絵を見た瞬間に一気に広がった。ああ、父はこんなきれいな風景を見ていたのだな、と思った。私の中では特に印象深い絵。

 

東京で個展が行われるまで何度か間に個展があったのだが、距離的な問題で行くことがむづかしかった。なので今回、実際に柴田さんの個展へ行くことができて、ほんとうにうれしかった。

 

6日は柴田さんが在廊していらしたので、長くお話を聞くことができた。

絵を描いている時はラジオを聴くこと。これにはかなり驚いていて、あのような絵を描く時はかなりの集中力を使って描くようなイメージがあったのだが、柴田さんは絵そのものに集中しすぎないようにしていて、ラジオをよく聴くそうだ。「やろうと思えばできる」ということの「思えば」の部分を取り除きたいというイメージはすごく新鮮ながらも私も目指すところがあるような気がした。

物事を意識化で把握していくという取り組みは西洋/東洋哲学にも近しいものを感じる。

 

柴田さんの絵は刺さる人とそうでない人がいる絵だということは、見ているとわかった。しかしながら絵というものはすべてがそういった面を持ち合わしているような気がしていて、それは人の感覚的な部分の相性のようなもののような気がしている。

 

話は移り、民間伝承の話となる。私も最近、ウェルビーイングやマルチスピーシズという概念に触れる中で人間の文化、民俗学などに興味があった。

その中で例えば、村の子どもがいなくなったことに対して、怪異のせいにする、鬼に攫われてしまったのだなどと。そうするとその子は何か(ここでは怪異、鬼)のせいにできるので、ある種ほっとした感覚、抜け道のようなものをその子が獲得できたということになる。もし、村の子どもがいなくなったことに対して、その子が逃げたのだということにすると、その子は帰ってくることがとてもむづかしくなるだろう。逃げ道を作る、機能を曖昧にした先に得られる場所ということ。

これは、アガンベンの『例外状態』や『いと高き貧しさ』などに通づることがあるかもしれない。

 

その後、話は私の人生相談へ続いていく。私はいまやりたいことの分野が雑然としていて、結局自分は何をやりたいのかということが明確になっていない。やりたいことはたくさんあるのだけれど、その順序や道筋をどう作っていけば良いのかがまったくわからない状態にいる。そんな中のお話。

まずは自分にとって大切なことはなにか、ということ。これはあらゆることのモチベーションとして常に考えておきたいことだと思った。

そして、いまの私の状態は「鍵を持っている状態」だということ。どこでその鍵を使えばよいのかがわからないだけで、いつか辿り着いた時にすぐに動ける、そうしてそのような状態はきっとしあわせなことなのではないか、ということを教えていただいた。

私はこの感覚が自分の中では衝撃的で、元々自分には何もない、という感覚が自分の中に常にあった。

それがそうではなくて、鍵がある状態だったのだ。それもたくさんの。

ありがたく、人生のひとりの先輩からこのような言葉を受け取ることができて、私はその時点でしあわせなのではないか、と感じた。

 

柴田さんの個展 物ノ瀞は今月の16日(金)までやっています。

ぜひに。