個展 物ノ瀞

12月6日火曜日。最近はついったーで見続けていた柴田高志さんの絵を見に行く機会に恵まれた。

 

 

柴田さんのこのツイートを13時過ぎからの時間がとてもよいものだと勘違いをして駆け込んだ。実際は12時からのオープン直後がおすすめのよう。

 

柴田さんの絵を初めて見た時、おぼろげで定かではない空間の中にあるしっかりとした芯のようなものを感じた。あたたかさ、力強さ、やわらかさが打ち消し合わずに紡がれているような印象。

 

どうしても実際の絵を見てみたくて、Boothに出品されていた絵を買った。「箱絵-19」という絵。亡くなった父が登山が好きだったのだが、その父が見ていた風景が絵を見た瞬間に一気に広がった。ああ、父はこんなきれいな風景を見ていたのだな、と思った。私の中では特に印象深い絵。

 

東京で個展が行われるまで何度か間に個展があったのだが、距離的な問題で行くことがむづかしかった。なので今回、実際に柴田さんの個展へ行くことができて、ほんとうにうれしかった。

 

6日は柴田さんが在廊していらしたので、長くお話を聞くことができた。

絵を描いている時はラジオを聴くこと。これにはかなり驚いていて、あのような絵を描く時はかなりの集中力を使って描くようなイメージがあったのだが、柴田さんは絵そのものに集中しすぎないようにしていて、ラジオをよく聴くそうだ。「やろうと思えばできる」ということの「思えば」の部分を取り除きたいというイメージはすごく新鮮ながらも私も目指すところがあるような気がした。

物事を意識化で把握していくという取り組みは西洋/東洋哲学にも近しいものを感じる。

 

柴田さんの絵は刺さる人とそうでない人がいる絵だということは、見ているとわかった。しかしながら絵というものはすべてがそういった面を持ち合わしているような気がしていて、それは人の感覚的な部分の相性のようなもののような気がしている。

 

話は移り、民間伝承の話となる。私も最近、ウェルビーイングやマルチスピーシズという概念に触れる中で人間の文化、民俗学などに興味があった。

その中で例えば、村の子どもがいなくなったことに対して、怪異のせいにする、鬼に攫われてしまったのだなどと。そうするとその子は何か(ここでは怪異、鬼)のせいにできるので、ある種ほっとした感覚、抜け道のようなものをその子が獲得できたということになる。もし、村の子どもがいなくなったことに対して、その子が逃げたのだということにすると、その子は帰ってくることがとてもむづかしくなるだろう。逃げ道を作る、機能を曖昧にした先に得られる場所ということ。

これは、アガンベンの『例外状態』や『いと高き貧しさ』などに通づることがあるかもしれない。

 

その後、話は私の人生相談へ続いていく。私はいまやりたいことの分野が雑然としていて、結局自分は何をやりたいのかということが明確になっていない。やりたいことはたくさんあるのだけれど、その順序や道筋をどう作っていけば良いのかがまったくわからない状態にいる。そんな中のお話。

まずは自分にとって大切なことはなにか、ということ。これはあらゆることのモチベーションとして常に考えておきたいことだと思った。

そして、いまの私の状態は「鍵を持っている状態」だということ。どこでその鍵を使えばよいのかがわからないだけで、いつか辿り着いた時にすぐに動ける、そうしてそのような状態はきっとしあわせなことなのではないか、ということを教えていただいた。

私はこの感覚が自分の中では衝撃的で、元々自分には何もない、という感覚が自分の中に常にあった。

それがそうではなくて、鍵がある状態だったのだ。それもたくさんの。

ありがたく、人生のひとりの先輩からこのような言葉を受け取ることができて、私はその時点でしあわせなのではないか、と感じた。

 

柴田さんの個展 物ノ瀞は今月の16日(金)までやっています。

ぜひに。

現代哲学との出会い

10月6日水曜日、この日、千葉雅也先生の『現代思想入門』を買って、読みはじめた。

これが現代哲学との最初の出会い。

 

現代思想入門』では「現代思想」を1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」と定義している。3人の代表者:ジャック・デリタ、ジル・ドゥールズ、ミシェル・フーコーを軸に現代思想への門をくぐる。

「いまなぜ現代思想を学ぶのか」という問いに、千葉雅也先生は「世の中には単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」と述べている。現代は「きちんとする」時代、秩序化、コンプライアンス、単純化が推し進められる。そんな中、「必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばある」。そして、「物事をきちんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか」、と疑問を投げかける。

 

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。

戦争の経験は、「皆は一丸となってひとつの方向へ向くことの警戒心」を教えてくれる。そして、「一人の人間が逃げ延びられる可能性が倫理的につねに擁護されるべき」だと主張する。

 

代表者の3人の哲学者の大枠を読んだ後、現代思想、現代哲学というものがグレーゾンを掬い上げる哲学なのだと知って感動した。そこから、現代思想、現代哲学をもっと学びたいという気持ちが強くなり、気がつくと所属していた通信大学のコースを数学から哲学に変えていた。そして今期は休学中なので先取って現代哲学を大学で学ぼうとしている。

 

私がグレーゾンに興味があったのはかなり前からだった。

母子家庭、貧困家庭だったので大学へ行けない、働きながら通信大学に入る、自律神経失調症から完全に回復することができずにアルバイトでの生活しかできない、東京へ来て仕事をしていたら身体の調子が悪くなり、診断したところ双極性障害だとわかった。ふつうに歩むことができない人生、常にふつうから外れた人生という意識が自分の中にあった。

そしてそれを学びとして捉えられないかとずっと考えていた。神谷美恵子の『生きがいについて』。ハンセン病でふつうから遠ざけられた生活をする人たちの生き方。貧困について。ふつうの道からこぼれ落ちてしまう人たちの生。アガンベンの『例外状態』。国は必ずしも人権を守るとは限らない。そのような生のあり方、社会福祉などによる掬い方などにずっと興味があった。

勉強するも、自分が結局何に興味があるのかという具体的な指標がわからない。

最近になって、ようやく方向性が掴めて来たのだが、その大きな契機になったのが現代哲学なように思う。グレーゾンについて哲学で扱える世界があるのかという大きな感動を覚えた。いまは大学でベルクソンについてやっているのだけれど、ベルクソンの「生の哲学」に関しても、生について哲学ができるとは思っていなかった、そのような大きな問題を哲学の題材にするのはナンセンスだということをよく聞いたので、驚きと感動、もっと学んでみたいという気持ちが沸き起こっていまに至っている。

 

これから大学で学んでいく事柄は、私の価値観や過去を引き摺る癖、周りを見る眼など様々なものを変えていくだろうという気がしている。

 

そして、東京で過ごしはじめていままでに変わったことといえば、相方と離れて暮らすことになったこと。

これは私の精神疾患によって仕事ができないために生活が回らなくなってしまったので同居解消という形にしたのだけれど、そうなるまでの間、そして毒親の母と訣別を決意してから私の物理的にも精神的にも傍にいてくれたこと。

いままでの感謝とこれからの生活を私自身でより豊かにしていくという意識や決意。

私を構成していたあらゆる要素がこれからの糧になる気がしている。

 

がんばっていきたい。

 

#寝袋、丸めた毛布の上

双極性障害の急性交代を発症してから社会復帰をして自殺未遂をした話

双極性障害と診断されてから続けていた仕事を急性交代が発症したことにより辞めた.双極性障害は「ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返」す精神障害躁うつ病とも呼ばれたりする.双極性障害の急性交代とは,「年4回以上の躁病相、うつ病相もしくは混合性病相を認める、治療反応性の低い双極性障害」のことでラピッドサイクラーとも呼ばれる.近くのスーパーへ行って帰ってくる間だけで躁とうつの波が起こり,外出ができるような精神状態でなくなった.また,混合性の状態も当時は感じていた.この時,双極性障害と診断されてから薬物治療を行なっていたが,副作用の腎臓障害の対処を担当医が行ってくれないという理由で,病院へ行っていなかった.急性交代の症状があまりにつらいので,治療のため新しく病院を探すことにした.

 

新しく病院を探すときには,「先生が話をよく聞いてくれる」といったようなカウンセリング的な要素のない病院・クリニックを探すように心掛けた.また,副作用が起こりにくかったり依存性の低い薬の提案を行ってくれるようなところを探した.

時間はかかったものの,現在社会復帰が行えるレベルに回復するまでお世話になっているクリニックを見つけることができた.

急性交代になり仕事を辞めて社会復帰をするまでの1年間,大変だったことややってよかったことなどがあるので記しておこうと思う.

 

新たなクリニックでの治療開始

担当の先生には初診の時に過去に自律神経失調症,現在は双極性障害と不安障害と診断されたことを伝えた.双極性障害が治療対象となったので治療を始めることにした.以前かかった病院では受付で紹介だけされていた自立支援医療の申請を勧められ,いまのクリニックはよいところであるような気がした.まずは双極性障害の副作用が少なめの薬で治療を開始,睡眠障害を持っていたので睡眠薬ももらった.

初めは躁状態うつ状態もあまり収まらず,また睡眠薬は依存性の少ないものを処方されたものの,幻覚や金縛りなどの副作用があり,変更になった.

 

新たな薬の副作用

このクリニックで治療を始めたのが夏頃,秋頃に処方される薬がかなり変わった.処方されて三日目ごろから急にふらつくことが多くなり,髪の毛がよく抜けるようになった.一週間後にはベットから起き上がることができなくなった.病院へかかることを考えたが,自分でできることもとりあえず探そうと思い,大袋のジャーキーを買ってベットの上で食べていた.また十度の貧血に思われたので鉄分や葉酸サプリメントを買って飲んだ.次のクリニックの通院のときにはベットから起き上がって外へ出れるほどには回復していた.それからは副作用がそれほどひどくなくなったので服用を継続.

 

毒親との訣別

私の親は俗に言う毒親で特に母からされたことのトラウマが強く,睡眠薬を飲んでも毎日悪夢を見ているくらいだった.そしてパートナーと実生活をしているうちに,母親の記憶というのが自分の中にあまりに深くこびりついていて,私は常に過去を見ながら生きていることに気づいた.パートナーと会話をしているはずなのに,その後ろには常に母がいたのだ.そんな状況を断ちたくてスーザン・フォワードの『毒になる親』を読み始めた.

『毒になる親』に書かれていた毒親の特徴は身体的な暴力以外ほとんど母は当てはまっていた.毒親みたいだと思っていた親が毒親であったことが示された.『毒になる親』では毒親の元で育った子どもが大人になりどのような障害を持つのかが示される.そのほとんどが自分も同様の感覚を抱いていた.特に,こうなってしまったことは誰が悪いのかという疑問に対して,毒親が謝ることをしないパターンが多い.そうなると子どもは適正な判断を怠った自分が悪いのだと,どちらかに非がありそちらが謝らないのなら自分が悪いという深い思い込みをしてしまう.そのせいで極端に自己肯定感が低く,物事を常にネガティブに考えがちである.

そしてこれを解消するためには毒親であるあなたはこのようなことを過去に私にしてきて,それは悪いことなのですよと直接自分の口から伝える「決闘」を本の中では推奨している.結果的に私はまだ決闘をしていないのだけれど,決闘を行うことで私はこんなことを受けてこんなふうに思っていた,そのことに対して謝罪をしてほしいと自分の口から言うことの大事さを学んだ.そして,毒親が作った環境の非は毒親にあるが,これはずっと思っていたことだが毒親を育てた親もまた毒親であり,それぞれが救われずに今日まで来ていると言うことを再確認した.このことがあり余計に私は母に謝ってほしい訳ではないと言う気持ちを自分の中で確認したので決闘を行わなかった.親が亡くなっていないのであれば本来は決闘をするべきであると私も思う.けれど,このような理由で行わずに毒親と心の中で訣別をするということができたように思う.心の中では訣別したものの,記憶の中ではいまでも毒親は生き続けており,私はずっとパートナーの助けを得ながらその記憶の解消を行なっている.

そして,このようなことがあったからか,11月ごろにふと悪夢を見なくなっていることに気付いた.毎日のように見ていた悪夢が消えた.月に2,3回はまだ見るものの,格段に以前より見る回数は少なくなっている.

 

自分の仕事について考える

元々正社員は相性が悪く向いていないと思っていたので諦めていた.双極性障害と向き合いながら生きてゆくために最もよい働き方はなんだろうかと考えていた.以前より学び場を兼ねた古本屋をやりたいとは思っていたが,資金面で難がある.古本屋1本でやっていくのも不安定であるので,デザイナー兼古本屋でやっていけたらいいなと思った.

元々グラフィックデザインに興味があったので学びたくなり,デザイン学校の説明会に参加したのが2021年の12月だった.

そこから入学費を貯めるまでに4ヶ月程度かかり2022年の3月にグラフィックデザインの4ヶ月の講座に参加することになった.

 

ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に勉強するための本

TwitterのTLでこの本を見かけた.今まで大学の勉強も上手くできなくてどうしたらよいのかわからず,これから始まるデザインの勉強にも不安を感じていた.興味があって読み始めたところ,自分の特性や今まで勉強がうまくいかなかった理由などが少しだけわかるようになった.また,幼少期の頃にASDの診断を受けていたが,ADHDの可能性もあるように思った.いま通っているクリニックで発達障害の治療も行えるのか,別の病院を探した方がいいのか迷っていた時期だった.

 

処方されていた薬の供給が止まる

デザインの学校がいよいよ始まるというタイミングだった.主で飲んでいた薬の供給が不安定になり,ついには供給が止まり,飲むことができなくなった.

せっかく症状が安定してきたと思った矢先に供給停止,離脱症状の不安,デザイン学校で症状が大きくならずに通い続けられるかという不安など,一気に不安の種が増えた.しかも代替薬がなく,治療の行き詰まりを感じた頃だった.

 

デザイン学校で学ぶ

早期学習を始めたくて2週間ほど前から勉強に取り掛かった.学習形態は基本的に動画講義をメインにし,そこで自学自習をしながらオンライン講義を週1のペースで受ける形だった.

私は人と話す機会に今まで乏しかったので,会話をするだけでも緊張して声が震えていた.また,Zoomを使ったコミュニケーションに苦手意識を感じていたので,慣れるまでが少し大変だった.

学校では2ヶ月目と4ヶ月目に大きな課題が出る.2ヶ月目の課題はロゴ制作.自分で作り上げた企業などのロゴをコンセプトをもとに作り上げていく.この課題では説明会の時から今後作りたいと思っている学び場兼古本屋のロゴを作りたいと思っていた.1年前ほどにラフ案は作ってあったのでそれを形にする作業になった.

オンラインの授業はハードだがとても面白く,いま思い出しても本当によい時間を過ごさせてもらったように思う.デザインの基礎からデザインを作る工程,デザインに必要な要素は何なのかなど,独学では得られなかったものがたくさん得ることができた.

 

発達障害の可能性の診断を受ける

メインで飲んでいた薬の供給が止まってから,躁鬱の症状も出始め,代替薬もないのでこれからどうしたらという状態が続いていた頃,担当医よりADHDの可能性が高く,双極性障害の双方で治療を試す価値があると言われた.

元々,双極性障害双極性障害であると見分けがつきにくい病気で他の病気や発達障害と間違われて治療をされる可能性がかなり高いらしい.初めての病院で双極性障害と診断されたのは幸運だったように思う.

ASDの診断は幼少期に受けており,これでADHDASD発達障害の可能性があることになった.薬物療法の対象はADHDのみ.

 

社会復帰をする

デザインの学校を6月に卒業した.早く仕事がしたくて仕事を探しまくり,6月末から本に関する仕事をすることになった.国の事業の一環に参画することになり,胸が高まった.ここでの研修で本に関する知識と扱い方をとても丁寧に学んだ.

仕事は初めは順調だった.仕事の成績も新人の中でトップになった.このままこの仕事を続けたいと思った.

 

死ぬことを考え始める

働き始めて一ヶ月半が経った頃,唐突に希死念慮が襲ってきた.希死念慮なんて治療を始めてからほとんど出ていなかったので久々の感覚に戸惑いを感じた.そして死の魅力に抗えない気持ちが強くなってきた.

 

自殺未遂をする

初めは駅に飛び込もうと思い,家を出た.相方に何も言わずに死ぬのは申し訳ないと思い,一言残して死のうと思った.駅に向かっている途中で相方から電話があり,無視して駅に向かおうと思ったものの何もしていないのに無視は失礼だなと思い電話に出る.お願いだから帰ってきて,と言われ初めはいやだと思い駅に向かう.相方の様子があまりに必死だったので申し訳なくなり,家に帰ることにした.家に帰ると相方が疲弊した様子で話を聞こうとしてくれた.けれど死の魅力に勝てる気がしなくて,どうしようもなく,警察を呼んだ.

これはあるサイトで自殺をどうしてもやめられない時には最終判断として警察を呼ぶようにと書かれていたのがきっかけだった.

警察の方が到着すると話を聞かれた.我々の仕事柄からすると死んでほしくはないと言われて,また電車に飛び込むのだけはやめた方がいいよとも言われた.遺体を処理するのは警察の仕事であるしそのような場面に遭遇した経験がある人からそう言われてしまうとやろうにもやりきれず,わかりましたと言った.駅で保護されていたら強制入院だったらしい.

 

二日ほど経っても希死念慮は消えなかった.途中で通院しているクリニックへいき,頓服薬をもらったがあまり効いている気がしなかった.なんだかむしゃくしゃとして飛び降りようと窓を開いた.怪我をしたいだけだったが,こんな高さではどうしても死ねない.そうして諦めてしまった.

 

また二日ほど経って朝起きると少し希死念慮が落ち着いている気がした.朝の薬を飲もうと思い,机に向かったところ,仕事で朝が忙しく,飲み忘れていた薬の2ヶ月分が目に入った.最近のうまくいかないことはぜんぶこの薬を飲んでいなかったせいだと思い,またむしゃくしゃした.ぜんぶ飲んでやろうと思い,気づいたらぜんぶ飲んでいた.

駅で死ねなかったのは途中で相方の言うことを聞いたせいと,睡眠薬と酒を入れなかったせいだと思い,睡眠薬と酒を飲んだ.

急速に眠くなってきたので横になる.

 

起きると相方が帰ってきたところだったので起き上がった.起き上がってから少しずつ意識が朦朧としてくる.脚の痙攣が止まらないのでとりあえず椅子に座った.相方が救急車を呼ぼうかと言って救急車を呼んだらしかった.てっきりあれだけの薬を飲めば寝ている間に死ねるんじゃないかと思っていたので残念だった.

救急隊の方が到着して何か色々と聞かれた.答える気力は残っていた.担架で運ばれている時はほとんど記憶が朦朧としていて,救急車の中で相方が手を握っていたのだけ覚えている.

救急室に運ばれていろいろな処置をされる.尿道に管を通すときに激痛が走り,意識が朦朧としても痛覚はきちんとあるのだなと驚いた.浮遊感がものすごく,このまま死ねるなら本望だなと思った.処置をしてくれている方が,どうしても脈だかが上がらない,と言うことを言っており薄い意識の中で死を期待する.ここまで死にたいと思うのはもう頑張りたくないから,もう生きることに疲れたから,もう悩んでいたくないからだった.

結果的に翌日には意識がはっきりした状態にまで戻っていた.人間と医療はすごいのだなと実感する.不眠症睡眠薬が飲めなかった状況だったので夜通し起きていたと知った看護師さんが驚いていた.精神科の先生に診てもらい,許可が出たら退院が可能と言うことだった.

救急室でも気になっていたことに母が病院に迎えにくると言うことだった.母にどうしても会いたくなかったので相方に迎えを頼みたいと看護師さんに伝えてみたが,どうしてもむづかしいということだった.

結局,母に迎えられふらふらとしながらも朝食に連れられる.そしてその後母と口論になり,店を出て,歩いている途中でどうしようもなくなり,相方に助けてほしいとお願いをした.そして迎えにきてもらう.

相方と帰っている道中で母が家に来たことを相方が言った.そしてあれは母親ではなくて化け物だと言った.よく今まで生きていたと言った.私はなんだか救われたような気がして,この時に本当に母との訣別を心の中で行えたような気がした.母が毒親である事実は父が一番の共感者であったけれど,数年前に死んでしまった.

ずっと独りの感覚が抜けず,過去を引きずっていまも障害に塗れて生活が困難な時があり希死念慮が抜けず,結局自殺をしようとしたが,ここにきて共感者が現れた.

今まで相方からずっと母のことを忘れるように,母のことを考えるなと強く言われていたのだけれど,家に来たあの人を見てからはあれでは記憶から離れられないのは仕方がない,一つの精神的暴力だと言っていた.その言葉に救われる気持ちだった.

 

いま

入院から数日後にクリニックへ行った.先生からも心配されたが,あれだけの薬を飲んでも死ななかったのは先生の薬の判断のお蔭なのだと知った.独りでいた気持ちがまったくの嘘で,いろんな人に支えられて生きていたことに気づき反省をした.死への魅力的な気持ちは消えないけれど,毒親から逃げるという選択肢をとって生きていくという気力は少しずつ湧いてきた.

母から本当に訣別する意識でメッセージを送った.今までされてきたこと,その中で思ってきたこと,死にたいと思う動機の中に母の存在があることなど.返信が大量に帰ってきたものの,見る気がなく見ていない.相方や先生からも絶対に見てはいけないと言われており見ていない.

最近はカミュのシーシュポスの神話について詳しく知りたくなったり,法について知りたくなったり,デュルケーム社会学に興味が湧き,調べたりしている.そのうちまたアウトプットの訓練をはじめたい.

 

#いつもの椅子

いま

双極性障害とわかってから,転院をして今のクリニックでお世話になり,最近そこで発達障害の可能性が高いとの診断を受け,双極性障害発達障害両方の治療をしている.自分に合う薬と量を模索している段階なので,治療の効果が出ているかというとあまり出ているようには感じられない,もどかしい日々.ただ,去年の秋ごろに発症した急速交代はなくなったので,治療を開始した頃よりはよくなっているのかもしれない.

そんなこんなとあったものの,いまは休職しているのだけれど社会復帰をしたいとずっと思っていた.その時に,いままでのように雇われの身ではもう身体が持たないなと感じていた.そこで過去に少しだけ齧ったことのあるフリーランスへの転職を考えている.フリーランスであれば自己管理に集中しやすく,生活リズムにも影響がないので双極性障害発達障害と向き合いながら仕事ができるのではないかと思う.そのあたりもやってみないとわからないので,3月からデザインの学校へ通っている.

 

学校へ通う前に,TwitterのTLで見かけた『ちょとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に勉強するための本』という本に一通り目を通して,自分がなぜ勉強ができないのかを把握して,学校で実践してみようと考えた.アカデミックスキルズの本を何冊か読んだものの,いまいち把握できなかったのは,自分がアカデミックスキルを知らなかったのではなく,そもそも勉強に向いていない脳の障害を持っていたからだったというのがわかったのがとても大きかった.

入学前に,いままで飲んでいた薬が供給不足で飲めなくなり,代替薬もないという状況になってしまうというトラブルがあったりしたものの,他の薬で不足しながらも補う状態でなんとかやっている.

そして,仕事としてはフリーランスのデザイナーでやっていこうと思いながら,もう一つやりたいことがあり,それも授業の中で作り上げていっている.ずっと作りたかった学びの場の第一歩.

現在は,事業を一緒にはじめようとしている相方と相談をしながらロゴ制作を行なっている.

 

コロナ禍で世界情勢も不安定でという中で,この先どうなるかなんてわからないものの,自分が求めていた場所を少しでも作り始めることができてとてもうれしい.フリーでの仕事もうまくいくかなんてわからないけれど,デザインは好きな事柄なので頑張っていきたいと思う.

 

 

お仕事・ご依頼があればご相談ください.

 

#小春残冬

本の道

先日,開催が3年ぶりだった神保町の古本市へ行ってきた.

 

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風は強いものの晴れ.初めて来たのは2017年の8月.それから何度かひとりで来て,今回は相方を誘って初めてふたりで来た.

そして,その日が相方が古本に触れた初めての日になった.

 

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明倫館で購入した本.

ほとんど一目惚れで買ってしまった.

 

#本の道

休まなければと思い続けていたら年が明けてしまった.パートナーから全然あなたは休めていないということを指摘されて,確かにそうだな,と思う.

 

ここ数日も自分ががんばれていなかったからいけないのではないか,もっとよくできたのではないかと思うことが多く,けれども何をもっとがんばるべきだったのか,何をよりよくすべきだったのかは分からない.

 

去年の春頃に常に死ぬことについて考えていて,実際に一歩を踏み出そうと何度も思い,何度もそうすると色々なところに迷惑が掛かってしまうなと思い,やめることを繰り返していた.

死ぬことの一歩を踏み出すにはもはや誰のことも考えられないほどに追い込まれなければいけない.

 

以前からあった散財の癖がより一層酷くなり,貯金の底が見えはじめた.パートナーとは金銭的なことはまとめず,それぞれが管理するようにしている.カードについてもデビットにしているので口座の底がつけば大変になるのは自分だけになるようにしていた.

うつの傾向も一層強くなる.

そして夏頃には,以前からあった異様に行動力がある時期とうつの時期を繰り返すことが頻繁に起こり,外出ができないほどになった.

近くの店へ行くと,店内を歩いている時に急にうつになり動けず,かと思えば異常な行動をするようになった.

 

精神科へ2ヶ所行き,どちらも双極性障害と不安障害と診断された.1ヶ所目は主治医との相性がよくなく,通院2回目で行かなくなった.2ヶ所目では治療はゆっくりなものの,身体に過度な負担をかけずに治療ができている気がする.

 

仕事を辞めて,大学は休学を申請した.

それでも何かやりたいと思ってしまって,何かやっていないと何もしていないことが悪いことのような気がして動いてしまう.

うまくいくか分からないけども,新しい学校へ短期で通うことに決めていた.

そこでいままで生きることの中の苦手であったことを少しでも減らせていければいいなと思っている.

どうかよくなりますように.

 

#大窓の寝床

休学中に取り組みたい本たちの一覧とそのメモ:2

【貧困関連】

・『貧者と貧困』(西澤晃彦)

 放送大学の講義で扱われていた書籍.いまはこの講義に代わり,「人間にとって貧困とは何か」が開講されている.

 『人間にとって貧困とは何か』のボリュームについていけなくなったので,前身の『貧者と貧困』を読み始めた.こちらの方が一つ一つの題材を丁寧に扱っている印象がある.またこちらは資料が逐一載っているので参照がしやすい.内容の盛り込み方と編集の仕方はこちらの本の方が僕はわかりやすかった.

・『人間にとって貧困とは何か』(西澤晃彦)

 同じく放送大学の講義で扱われている書籍.1章につき3章くらいは割いていいんじゃないかと思うくらいボリュームが多い.貧困の概念が社会的に顕になっていった経緯や理由,また現在の貧困の状態,貧困を対象とした社会学者の概観などを1冊で見ることができると思う.ただ文体が少し独特なので講義を一緒に聴かないとわかりにくい気がする.先生の声がいい.

・『貧者の領域』(西澤晃彦)

 放送大学の教材を書いた先生の本.テキストよりも読みやすいらしい.

・『まなざしの地獄』(見田宗介)

 『貧者と貧困』,『人間にとって貧困とは何か』において参考書籍として扱われていた本.集団就職が行われていた時代の日本の状況をほとんど知らなかったので,この頃に貧困の下地の形成がより進行したことを初めて知った.「都市とは、ひとりひとりの「尽きなく存在し」ようとする人間たちの、無数のひしめき合う個別性、行為や関係の還元不可能な絶対性の、密集したある連関の総体制である」という一文が印象深い.

・『格差は心を壊す 比較という呪縛』(リチャード・ウィルキンソン/ケイト・ピケット)

 社会的弱者という立場に置かれた人たちの自尊心,心の問題について書かれている書籍は貧困を扱った書籍の中でも少ない印象がある(いままで読んだものの中では,神谷美恵子さんの著書,『弱者の居場所がない社会』(阿部彩)あたりが扱っている).相対的貧困においては,決して必要ではないものを買うことができるか否かが大きな分断点となる.その積み重なりは買える者と買えない者の差を一層大きくしていき,買えない者は比較を通して己の貧困を自覚することになる.「息苦しいすべての人へ」というメッセージがとても気になる.

・『海を撃つ』(安東量子)

 「私は忘れまい。今日見た景色を、聞いた話を、忘却の向こう側へ押しやられようとしていることたちを、あなたが忘れるのなら、私は記憶に、記録にとどめよう」

 帯に書かれたこの文字たちは,僕が貧困について考えることを決して止めないために常に心に留めておくべきものだった.弱者の経験というものは,それを経験したことがない人からすると弱者自体の存在すら忘却されることが多い.だから,経験し,それを知っている者は決してそれらを忘れてはいけないのだと思う.忘れてしまえば,いるはずの彼らは本当に存在しなくなってしまう.社会的な包括によってそれらの存在はなくなるべきであって,忘却によってなくなるべきではない.忘れられる者という点において,被災者も同じ境遇なのだと思う.経験と記憶,そしてその記録は僕が貧困を学び続けるにあたって常に必要なものになる.