現代哲学との出会い

10月6日水曜日、この日、千葉雅也先生の『現代思想入門』を買って、読みはじめた。

これが現代哲学との最初の出会い。

 

現代思想入門』では「現代思想」を1960年代から90年代を中心に、主にフランスで展開された「ポスト構造主義」と定義している。3人の代表者:ジャック・デリタ、ジル・ドゥールズ、ミシェル・フーコーを軸に現代思想への門をくぐる。

「いまなぜ現代思想を学ぶのか」という問いに、千葉雅也先生は「世の中には単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」と述べている。現代は「きちんとする」時代、秩序化、コンプライアンス、単純化が推し進められる。そんな中、「必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばある」。そして、「物事をきちんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか」、と疑問を投げかける。

 

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。

戦争の経験は、「皆は一丸となってひとつの方向へ向くことの警戒心」を教えてくれる。そして、「一人の人間が逃げ延びられる可能性が倫理的につねに擁護されるべき」だと主張する。

 

代表者の3人の哲学者の大枠を読んだ後、現代思想、現代哲学というものがグレーゾンを掬い上げる哲学なのだと知って感動した。そこから、現代思想、現代哲学をもっと学びたいという気持ちが強くなり、気がつくと所属していた通信大学のコースを数学から哲学に変えていた。そして今期は休学中なので先取って現代哲学を大学で学ぼうとしている。

 

私がグレーゾンに興味があったのはかなり前からだった。

母子家庭、貧困家庭だったので大学へ行けない、働きながら通信大学に入る、自律神経失調症から完全に回復することができずにアルバイトでの生活しかできない、東京へ来て仕事をしていたら身体の調子が悪くなり、診断したところ双極性障害だとわかった。ふつうに歩むことができない人生、常にふつうから外れた人生という意識が自分の中にあった。

そしてそれを学びとして捉えられないかとずっと考えていた。神谷美恵子の『生きがいについて』。ハンセン病でふつうから遠ざけられた生活をする人たちの生き方。貧困について。ふつうの道からこぼれ落ちてしまう人たちの生。アガンベンの『例外状態』。国は必ずしも人権を守るとは限らない。そのような生のあり方、社会福祉などによる掬い方などにずっと興味があった。

勉強するも、自分が結局何に興味があるのかという具体的な指標がわからない。

最近になって、ようやく方向性が掴めて来たのだが、その大きな契機になったのが現代哲学なように思う。グレーゾンについて哲学で扱える世界があるのかという大きな感動を覚えた。いまは大学でベルクソンについてやっているのだけれど、ベルクソンの「生の哲学」に関しても、生について哲学ができるとは思っていなかった、そのような大きな問題を哲学の題材にするのはナンセンスだということをよく聞いたので、驚きと感動、もっと学んでみたいという気持ちが沸き起こっていまに至っている。

 

これから大学で学んでいく事柄は、私の価値観や過去を引き摺る癖、周りを見る眼など様々なものを変えていくだろうという気がしている。

 

そして、東京で過ごしはじめていままでに変わったことといえば、相方と離れて暮らすことになったこと。

これは私の精神疾患によって仕事ができないために生活が回らなくなってしまったので同居解消という形にしたのだけれど、そうなるまでの間、そして毒親の母と訣別を決意してから私の物理的にも精神的にも傍にいてくれたこと。

いままでの感謝とこれからの生活を私自身でより豊かにしていくという意識や決意。

私を構成していたあらゆる要素がこれからの糧になる気がしている。

 

がんばっていきたい。

 

#寝袋、丸めた毛布の上