集合論

 

無事に仕事を辞めることができたので,ぼろぼろになった身体を田舎へ持ってきた.

 

最近なぜだか集合論が理解できるようになってきたので,いいタイミングだなと思い勉強を進めている.(以前は集合論はとても苦手な分野で全く記憶も理解もできなかったので,なぜ急に理解できるようになったのかとても気になっている)

教材は情報伝達の速度がはやい講義動画を軸に,理解が疎かになり始めた段階で『「集合と位相」をなぜ学ぶのか』(藤田博司),『数学基礎論』(前原昭二,竹内外史),また,『証明論入門』(八杉満利子,竹内外史)を理解の進捗を確認するために読み進めている.

『「集合と位相」をなぜ学ぶのか』は史実や記号の由来(著者の類推もある)が多く,理解の促進になっている.『数学基礎論』は読んでいる3冊の中でおそらく史実が最も豊富で,分野が形成されてゆく過程を辿ることができ,これもまた理解を促進してくれている.『証明論入門』は去年の末あたりに数学の証明そのものの構造や仕組みについて知りたいと思い,手に取った本.とても簡潔にまとまっていながら,数学基礎論に関しての好奇心がそそられる.今月から来月にかけて読み進められればと思っている.

1つの分野につき数冊を並行して読み進める方法は以前の仕事を続けている段階では時間的にも体力的にもかなり厳しかったので,新しい生活が始まるまでの期間,大事に取り組んでゆきたいと思う.

 

僕の興味関心がはじめ,数学基礎論,数理物理学にあったのだが,それらを知った段階ではまったく理解が及ばないような状態だった.少しずつ勉強していく内に,現代数学の根幹になっている集合論を学ばなければいけないと思っていただけに,こうして理解しはじめ,最も興味があった分野に近づけていることがとてもうれしい.

 

#文机,顎をつく

 

 

はじめの一歩手前

 

先程,通信大学の出願の一歩手前までを終わらせた.必要書類の郵送が完了したら出願となるらしいので,明日出しに行けば今週中には出願ができていると思う.

 

前に選科生として一度入学したのだが,母親から金銭的援助を求められ,学費に充てようと思っていた分を渡してしまったので継続して所属することができなくなってしまった.今回は自分の中のけじめでもあり,またいままでずっと大学に所属して勉学をしたいと思っていたことを叶えるために,働きながらなので通信ではあるものの,卒業まで頑張ろうと決めた.金銭的な問題が落ち着いたのもほんとうにありがたいことであるし,生活環境がかなり変わると思うけれど焦らすにやっていきたい.

 

周りを見ると働きながらの4年間での卒業は相当むづかしいという意見が散見されたので,5−6年を目安にやっていこうと思う.一応カリキュラムは組み終わった.途中で生活や仕事の都合で休学するみたいなことはありうると思う.その辺りも含めて融通が効く通信大学を選んだ.

 

いままで自分の興味の赴くままに学んできたけれど体系的な勉強も必要だなと常々感じていたし,丁度良い時期に始められるなとも思う.けれどたぶん興味が尽きないような気がするのでそういう自分の感覚的なものは無くさないようにしたい.

 

予定では1月辺りから仕事を落ち着けて前もって勉強できるようになるはずなのだが,いかんせんいまの仕事場の上の人の管理が杜撰なので(ぶつぶつ),予定通りに行ってくれるかわからない.その辺りもあまり気にしすぎず,譲りすぎずでやってゆこう.

 

#蛍光灯の下

「液–液相分離の新たな展開へ向けて」へ参加しました

 

12,13日の2日間に渡り開催された「液–液相分離の新たな展開へ向けて」へ2日目だけですが,参加することができました.僕はセミナーなどに参加した経験がかなり少ないので比較対象がよくできませんが,それでもこれ程のボリュームのあるものはそうそう無いのではないかと思う程,1日12人の方が発表を行うというボリューミーなセミナーでした.

 

もっとも興味深かったのが築地真也先生のデザインされたプロテインで細胞内を解析・制御する技術についてでした.(相分離自体の理解がまだできていないので,理解できる範囲が技術面に多かったです) プロテインをデザインし,それを用いて狙った因子を活性化させる,細胞内に人工の場(人工オルガネラ)を作るなど,こんなことができるのかと驚くことばかりでした.細胞内や分子という小さな世界での事柄でありながら,その世界の大きさは実際にはとても大きく,広く,また深いものであるように思いました.

生化学の書籍を読んでいると,細胞内の構造についてまだ解明されていないことがかなり多いことに気付きます.それらを解き明かす鍵に相分離がなるかもしれないと考えると,相分離のこれからに追いついていければと思います.

そして,特に技術面について,あるものを見るということの重要性と難しさを振り返っている中で思いました.見ることができるかというのは観測できるかということでもあるしまた認められるかということでもあり,それらが可能か否かによって発展や認識の様子もかなり変わってくるのだろうなと感じます.見るということは他の分野,例えば哲学などでも重要なもであるような気がしており,とても興味深いところです.

また,講演を聴きながら数学について少しでも勉強していてよかったなと思う節が度々ありました.数学自体,学問として非常に魅力であふれていますが,このように他の学問分野で用いられているところを見ると,もっと学んでより深い理解を得たいなという気持ちになります.

 

相分離を知ったのは確か8月だったように記憶しており,白木先生の『相分離生物学』もその月の後半に入手しましたが,生化学の分野に触れ始めたのも同じタイミングだったため読みきれておらず,また知識不足のため読んである範囲の理解も十分ではない状態です.それでも今回のセミナーの内容は本当に来てよかったと思うもので,また次回のセミナーにも日程が合えばぜひ参加できればと思っています.

宇宙と宇宙をつなぐ数学

帰り際に書店へ寄る時間ができたので,久々に丸善へ行って,ジョルジョ・アガンベン『例外状態』,加藤文元さんの『宇宙と宇宙をつなぐ数学』を買った.どちらもずっと読みたかった本なのでとてもうれしい.

『宇宙と宇宙をつなぐ数学』から始めて,まだ少ししか読めていないのだが,この本で取り扱っているIUT理論というのがとてつもなく好奇心をそそられるものだった.

理論提唱者はABC理論の解決の論文(http://u0u0.net/6uOW 内)で話題になった京都大学望月新一教授で,望月教授によると,IUT理論というのは,「「自然数」(中略)の足し算と掛け算からなる,「環」と呼ばれる複雑な構造をした数学的対象に対して,その足し算と掛け算の複雑な絡まり合い方の主立った定性的な性質を,一種の数学的な顕微鏡のように,「脳の肉眼」でも直感的に捉えやすくなるように組み立て直す(=再構成する=「復元」する)」数学的な装置のようなもの」だそうだ.揺るぎない性質だと考えられていた足し算と掛け算の関係性に変化があるのかもしれないという時点で,ものすごくわくわくするのだが,実際,IUT理論の核になる部分というのは,足し算と掛け算の間にある「尋常ならざる剛性(どこかですごく有名な表現らしいのだか不勉強のため分からない)」を解体し,変形することにあるらしい.さらに,様々な「緩み」=「不定性」が伴った状態で足し算と掛け算の関係性が再構成されるという.

この「「緩み」,「不定性」というのは必然的,不可避でありまた内在的でもある」というのがぼくはすごく面白いなと感じた.なぜなら以前,少しだけ触れていた圏論や興味が出ていた数論幾何学あたりにとても似ていたからだ.実際のところ圏論は議論が抽象的すぎて,地に足のつかない分野みたいなことを言われたりしているとか書いてあったような気がする.IUT理論も圏論ほどではないにしろ,その理論の難解さもあって数学者たちから「単なる抽象概念の複雑な絡まり」と受け取られていたりするそうだ.そのような印象を和らげる試みも『宇宙と宇宙をつなぐ数学』の中で行われている.

幸いに?ぼくは抽象的な議論が大好物と言っていいのか分からないが,すごく好きで理解したり考えることが楽しいと思うので,強い反発を覚えることはなさそうであるし,おそらくこの本を読み進めるうちにIUT理論についての理解もそうだけれど,他分野についてもう少し考え進められるところが増えるような気がする.

そしてこれがIUT理論を知りたい一番の目的であったりするのだが,学問を一つのいきものとしてみる文化進化論の既存の欠点を解消できるかもしれないとか考えていたりする.緩み,不定性を内在的に持っているという点がそこでもきっとすごく重要になっている.

最近は意識的に時間を取らないとじっくり本を読むことをしなかったりしてしまうのだが,それでもいつも通りおそらく盛大な寄り道をしながら読み進めたいと思う.

 

♯水平線の月付近

アガンベン(所感)

僕は貧困の格差は無くならないと思っている.貧困に限らず格差というのは大なり小なりほぼ必然的に生まれてしまうようなものだと思っている.けれども格差で悲しんだり苦しんだりする人がいまよりずっとこれから少なくなってほしいと願ってやまないし,僕もできることをやっていきたいしそのためにずっと学び続けている.

アガンベンについて読み進めるうちにこれは僕がずっと求めていたものだと何度も思った.ちょっと涙が出そうなくらいだった.

その無くならない格差をどうしたら悲しんだり苦しんだしする人が少なくなるのだろうかと考えた時,無くならないのなら格差を用いればいいのだと思った.けれど格差を用いてどうすればいいのかがわからなかった.僕は政治や経済の話がとても苦手なのでそういったところからどうアプローチをとか考えるのに色々と読み漁ってみたのだが全然頭に入ってこなくて散々だった.けれどアガンベンからだったらいけるかもしれない.格差というと上の地位にいる人には身近な感じに思えないのだが,「剥き出しの生」ならば少しひんやりとする危機感を持つことができるかもしれない.格差の中でとても悲しいと僕がいつも思っていたのは上の方にいる人と下の方にいる人の感覚や価値観の乖離だった.育ってきた環境でこんなにも人は変化するのかと何度も驚いたのだけれど,大抵の場合,どちらの言い分もその立場に立てば正しく,また逆の立場であれば受け入れるのがむづかしいことであっりした.そういうのを見るたびに,何だかとても悲しい気持ちになった.どちらかがはっきりと間違っていると言えれば,むづかしくない話に持って行けたのだろう.

まだまだ不勉強で,言いたいこともまとまらないし,具体的にどうすればいいのかとかそんなこともわからないのだけれど,アガンベンの思想がずっと考えていたことの大きな指標やヒントになることは間違いないだろうと思う.

 

久しぶりに文字にすると思考の荒ぶり様がわかるので,もう少し書き出すことを増やしていきたいと思う.

 

♯照る月,窓に差す

先日(といってもかなり前になってしまったが),小学校の修学旅行ぶりに奈良へ行った.奈良に特に用事があった訳でもなく,気分転換のようなもので行ってみた.

 

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毛の印象が日陰と日向ではかなり違っていたのが面白かった.

 

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確か焼き芋を売っていたような気がする.と鹿のおしり.

 

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ハクモクレンが散りかけだったのだがとても綺麗に咲いていた.桜と合わせて光をやわらかくしていてとても良かった.

 

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日陰の水辺が過ごしやすそうで僕もこういうところでのんびりしたいなあと思いながらそこでのんびりしている鹿を撮っていた.

 

♯鹿と人と雀