メモ

言葉が発散している時、ひたすらに海の中で藻掻いている様な、もしくは荒寥とした地平にアンテナを組み立ててただじっと待っている様な、そんな感覚がずっとある。

半年前くらいから現象学に求めている知覚と知覚する世界についての物事が、散らかりっぱなしのままだ。

現象学へはユクスキュルの環世界から入ったのだが、中々難しい(ぼくはとても哲学が苦手)のと、学んでいる中で何かがちょっと違うなという感じがずっとあって、その感覚が何なのかを探り当てることにも時間がかかっていた。何というか普遍的なものでなくともいいと思っているところに反するという感じなのだ、上手く言えないのだけど。

現象学として知覚を突き詰めてゆく時、「現象学」と括りができるほど抽象化されてしまうのが求めていることと若干のズレがある。例えばぼくが毛虫になったとした時、既存の現象学は毛虫のぼくには通用しないだろう、とかそんな感じなのだけど、そもそも哲学は人が積み上げてゆく思考で成り立っているのに毛虫の哲学だなんてねえと言われてしまいそうだ。

そうするとやはり生物学に求める方がよかったみたいなのだが、ユクスキュルの環世界だと何が足りないのだろうとここ2ヶ月ほどずっとうんうん考えていた。最近分かったことにユクスキュルの環世界だと「知覚できるもの」のみに焦点を当てていることが、足りていないものに繋がっていた様だった。つまり、ぼくは「知覚できないもの」の方にかなり興味があるらしかった。ここに来ると、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』辺りに通づることができそうだ。(メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』は『知覚の現象学』よりも洗練された思想の様で、先に読むのだったらこちらからがおすすめだと言われたものの読めていない)

ではこの「知覚できないもの」をどこに求めたらよいのかというのをまたうんうんと考えていたのだが、以前控えたメモの中に「生態学的視覚論」と言うのがあって、ここをあたるかと思い調べていたところかなりよい所だったみたいだ。これはもとはジェームズ・J・ギブソンの著書の邦訳『生態学的視覚論』だった。原題は『視知覚への生態学的アプローチ』。

目で物を見ることは光学や解剖学などで解することができるのだけど、それは目の物を映す(そしてそれを脳で変換する)仕組みが分かるということだ。これも先ほどのユクスキュルの環世界で何かが足りないと感じたのと同じで何かが足りない。目に映らないものについてが分からないのだ。

一方で生態学的視覚論では見えないもの、目に映らないもの、隠れているものが重要になってくるという。ここまで来ると何となく、有無は表裏一体の様な気がしてくる。つまり、「何が見えているのか」を知ることは「何を見ていないのか」を知ることになる。前者がぼくが足りない足りないと言っていた分野たちで後者が生態学的視覚論になる。どちらからアプローチをかけても、行く先は求めたいものなのだろうが、ギブソン生態学的視覚論では生物学から哲学、芸術まで多岐に渡る分野を含んで論が展開されているようだった(芸術に関してはギブソン後のことかもしれない)。包括している範囲が広い方が、学びやすい傾向があるのでこちらから行ってみることにしよう。ある程度の理解ができたら、今度はそれらを数学的に見れないかということもやってみたいなと思っている。これが多分一番難しいのだけど(哲学ですら記号論理学あたりにしか触れることができない)、最近は抽象数学が発展してきているのでその辺でアプローチがかけれないかななどと考えている。

年末までに何かが掴めるように頑張って行こう。

 

#海、または火星の様な地