愉しさ

最近、線形代数の講義をオンラインで受けているのだが、先日かなり前に買って挫折した2次行列の本を開いて読んだところ、わかる部分がたくさんになっていてとても驚いたのとすごくうれしかった。ベクトルの知識が高等レベル以下のはずなのだけれど、記憶の遠いところに少しだけやった形跡を発見してうすらうすらしている知識を引っ張りだしてみたりしている。こうやって学んでいるとやっぱり数学めちゃくちゃ面白いなと思うし、学ぶこと自体とてもたのしすぎて、こんな風に時間を過ごすことができることを幸せに感じる。

旅という時、それは物理的なもの、自分の身体をどこかに移動させてものを見たり知ったりすることが常ではなくて、精神的な旅、いまいるこの部屋にいながらどこかに行くことができるのだと学んでいる時はずっと感じている。確かに生身で感じることはとても大事でその感覚は生身でないのと全く異なることは分かっているのだけれど、またそれもそれだけが全てではないことを学んでいると感じることだ。どちらが良いかということではなく、どちらも経てよりよいものを得ることができるのだろうなと思う。

先日、将来警察官を志望している女の子が勉強を教えて欲しいからとお母さんに通話環境を頼んだらしいと連絡をもらった。誰かにものを教えて伝えることをまたやり始めるかもしれない。教えるというより一緒に学ばせてもらうという感じなのだが、学問としての愉しさとか学ぶことの愉しさとかが伝えられるといいな。ぼくが楽しんでしまうだけなのだが、そういうのが響くだろうとも自分だけの体験だけれど思っている。

 

♯白い部屋?

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明けましておめでとうございます。

 

今年の目標は、

線形代数の理解

・ベクトルの理解

・数理物理学への理解

・プログラミング(C言語)

・視覚論についての自分なりの咀嚼

・文化進化論の理解

としていきたいと思います。

来年になるまでに全てやり遂げるという感じではなく、今まで通り興味の赴くままに進めてみたいと思います。

 

線形代数は去年の時点で二次行列をやっておくとよいという助言をいただいたものの、手をつけることができずに終わってしまったので、今年の前半あたりまでを目処に。ある程度固まってきたら、先に進めます。

ベクトルは高等レベルの理解がない程度にしかない(=0)ので、基礎的なところから学んでゆこうと思います。受験期にお世話になっていた動画サイトで学びます。ただここだと問題の解き方のみになってしまいがちなので、並行してベクトル自体の理解も進めてゆきます。

秋の終わり頃から線形代数、ベクトルなどの勉強を数理物理学へ繋げられることができるととてもうれしい。

 

視覚論について、生態学的視覚論を見つけたあたりで忙しなくなってしまい、手がつけられなかったのでやってゆく。生物学と哲学の間のような領域だけれども、哲学が混じってくると理解の目標点みたいなものがそもそも存在しないような気がするので、自分なりの理解というのはつまるところ留まるかわからない思索になると思います。楽しみだ。今こうして書いていて気がついたのだが、ぼくはやっぱり考えることが好きなのだな。そういえば、小林秀雄が考えるということで、考えるとはそれと交わるということだみたいなことを仰っていた気がする。それと交わるということは自分と対象の境界線がなくなるということで、その辺りから生態学的視覚論を学ぶ動機にもつながっている。ギブソンのこの考えを見つけられただけでも大収穫であったけれど、今年はその先に何かがまた見つけられるとよいなあ。

 

文化進化論の理解は一昨年あたりに途中で投げてしまったもので、視覚論の理解が進めば捉え方も変わってくるのではないかと思っていてとても楽しみです。

 

プログラミングはひたすらゴリゴリやってゆければOK。

 

数学を学び始めて2年か3年目になった(はじまりを正確に覚えていない)のだけれど、ぼくが数学を始めるきっかけになったものに少しずつ近づいている気がする。いや、もしかすると近づいているというよりかはずっと側にあるのかもしれない。ぼくのいる位置が変わって見える景色が毎回異なっているように思えるだけで。それでもそうでなくてもよいのだけれど、とにかく数学をやり始めてから学問をすることがさらに愉しくなっていくと時間が経つごとに感じている。学問のきっかけはまた別にあるのだが、ぼくの軸になっているのが数学で、そこから派生したり突飛なところから出てきたものに飛びついたりして学んだりしている。これからまたどんな景色が見れるのか、何かを学び終える度にわくわくすることで、こうやって学べることがぼくはとても好きだなと今じみじみと思った。

 

そしてまだ生きることができていたら、やはり次の世代の子どもたちの学びやすい環境づくりに尽くせるといいなと最近何度も考えていた。そのためにどうすればよいかなどは少しだけ見えてはいるのだけれど、どうにも不透明の箇所が多いのでしっかりと足がつく程度には地を固めるための準備をしておきたい。

 

♯いつもの窓際に数年の光

自分の生きていくことの中に人が加わってから二週間ほど経った。そしてこれでもかというくらい、誰かがいることの力みたいなものを感じている。推力を得たりや加速度を上げたりするには他人の力が必要だと前々から身に染みるくらい感じていたけれど、なるほどこんなにも威力のあるものなのかと実感している。他人の力、というか存在そのものみたいなものが大事なのだな、と思った。これからまだどのような変化が周りに訪れるのか、楽しみでもあるが怖くもある。

 

離散数学をやっていて気づいたのだが、有限を扱う分野は方向性も目的物もはっきりしているのでとても進めやすいなと感じた。しかも具体例が身近というか、よく触れるものであったりするので具体抽象の往き来もしやすい。分野を進めていく中で詰まった時に、いつもは数学と歴史や文学、もしくは数学の中の抽象的な分野,計算を扱い分野という感じで変えていたのだが、有限を扱う分野と無限を扱う分野で切り替えるのもすごくいいなと思った。これからの勉強にとても活かせそうだ。

 

プログラミングを進めている中で、言語についてまた興味が出てきた。特に漢字についての興味。最近無性に漢詩を読みたくなったせいかもしれないけれど。以前、シーニュについてとても興味が出て色々と漁ってみたのだけれど、哲学的なところに来るとどうもやはり理解が全く進まなくなってしまって得られるものが得られなかったのだが、そこに関連させるのを漢字から入ることはできないかなと思って本を読み始めた。ずっと気になっていた白川静さんの著書を読んでいる。高校生の時にこの人を知っていたらのめり込んでいただろうなと思いながら読んでいる、とても面白くて興奮することばかり知る。

文字の中でも漢字はけっこう特異なものだと感じていたのだけれど、それはあたりだったみたいだった。視覚的な情報量と他の漢字への関連づけができるあたり、一文字自体が一種のQRコードみたいな感じだ。記号への理解が他の分野、数学や論理学などの理解を深めることができるんじゃないかとも思っている。

 

#黄昏の浜辺

やっとゆっくり記事を書く時間ができた。ここ一ヶ月ほど目紛しい日が続いたせいで、ろくに勉強する時間も取れなかった。その代わり、ここ一ヶ月の間に、放蕩した弟を拾ったり、自分が生きていくことがぼくだけの問題でなくなる出来事が起きたりした。これからどうやって生きていくべきか少し困ってしまっていたのだが、まあ何とかなるだろうと思うようになった。ぼくが自分の眼をしっかりと見て離さない限りは。

ぼくはもうひとりで生きていくのだとばかり思っていたのだが、隣に居てくれる人が現れた。何分初めてのことなので、今でもどうしたらいいのかが全くわからないのだが、不思議とそれでも大丈夫だと思ったのでそれに従うことにした。ただ学び続けることに妥協はしない。ぼくがそのために生きているのは、何が起こっても変わらないのだから。

こうして書いているのは、何が起こってもぼくは学ぶために生きていることを確かだと思いたいからなのかもしれない。ぶれるのではないかという不安がある。何分、独りでいる方がやりやすかったから。それでも今まで人との関わりをあまり重視してこなかった分、ここから少し学んでいくべきなのかもしれない。人と人が関わっていく様子は見ているのは好きだったけれど、自分がそこへ入っていくことはあまり機会がなかったし、少し不得意なところだ。少しずつ慣れてゆくことで、学ぶための環境もたしかに変えられる点が多くあるかもしれない。

放蕩していた弟は拾ってから少し休養させてもうそろそろ一人で歩けるようになると思う。ぼくができるのはこんな程度しかない。

 

先週あたりからプログラミングに精が出始めたのだが、どうにも理解が進まず、何がネックになっているのかがわからなかった。色々と漁っている中で、離散数学を見つけて調べ始めるとこれが当たりだったみたいだった。情報世界を集合で考えて抽象化する方法がとてもわかりやすくて、頭にすんなりと入ってきた。他にも色々と勉強したいことが山積みなのだけれど、興味の行くところが一番吸収率が高いので今までと変わらず、やっていきたい。

晴天に月影

デスクライトはいつも一番小さな明かりで灯しているので、磨りガラス越しに光が溢れ始めたことには直ぐに気が付いた。慌ててカメラを手に取り、電源をオンして、デスクライトを消す。日の出と同様、月が昇るのも早いのだ。山の木々の隙間からこれでもかという程光が溢れている。ガラス越しに見るより鮮明。薄暗い中で作業をしていたので目が痛いくらいだった。偶然にも先ほど偶々見つけた曲がイヤフォンから流れている。タイトルは「Heliosphere」。何だかいいなと思った。シャッターを切るうちに月は昇ってゆく。下の方が完全に出るか出ないかの辺り、木々の枝葉が被さって趣があってよかった。ここがいま、縁側だったらとてもいいのになあ。そう言えば月の光は太陽のは光を反射していると言うけれど、太陽の光より黄色味かかっているのは夜のせいだろうか、月の表面の色のせいだろうか、などと思いながら眺める。そう言えば、月の模様はぼくは兎に見えずどちらかと言うと逆さになった蟹に見えるななどとも思ったりした。他にはライオンとかもあるらしいけれど、ライオンにはどう頑張っても見えない。ぼくの想像力が足りないんだな。夜の晴天というのは少し、おそらくいつも日中の天気予報しか気にしていないからだろうが、聞き慣れておらず不思議な感じがある。夜に生きることがあれば、夜の天気予報を気にかける様になるかもしれない。今日は広く澄んだ空ですね、と双眸を光らせながらひとりごちたりするのかもしれない。

 

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#作業机

最近、仕事が増えてしまって帰ってきたら文字を読んだり書いたりする元気もなくて、ただ床に倒れ込んで窓の外を見ているだけになってしまっている。なので最近の出てきた月だけは、何度も綺麗だなとただ見とれている。写真を撮る気力はある。

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#窓際の床

メモ

言葉が発散している時、ひたすらに海の中で藻掻いている様な、もしくは荒寥とした地平にアンテナを組み立ててただじっと待っている様な、そんな感覚がずっとある。

半年前くらいから現象学に求めている知覚と知覚する世界についての物事が、散らかりっぱなしのままだ。

現象学へはユクスキュルの環世界から入ったのだが、中々難しい(ぼくはとても哲学が苦手)のと、学んでいる中で何かがちょっと違うなという感じがずっとあって、その感覚が何なのかを探り当てることにも時間がかかっていた。何というか普遍的なものでなくともいいと思っているところに反するという感じなのだ、上手く言えないのだけど。

現象学として知覚を突き詰めてゆく時、「現象学」と括りができるほど抽象化されてしまうのが求めていることと若干のズレがある。例えばぼくが毛虫になったとした時、既存の現象学は毛虫のぼくには通用しないだろう、とかそんな感じなのだけど、そもそも哲学は人が積み上げてゆく思考で成り立っているのに毛虫の哲学だなんてねえと言われてしまいそうだ。

そうするとやはり生物学に求める方がよかったみたいなのだが、ユクスキュルの環世界だと何が足りないのだろうとここ2ヶ月ほどずっとうんうん考えていた。最近分かったことにユクスキュルの環世界だと「知覚できるもの」のみに焦点を当てていることが、足りていないものに繋がっていた様だった。つまり、ぼくは「知覚できないもの」の方にかなり興味があるらしかった。ここに来ると、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』辺りに通づることができそうだ。(メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』は『知覚の現象学』よりも洗練された思想の様で、先に読むのだったらこちらからがおすすめだと言われたものの読めていない)

ではこの「知覚できないもの」をどこに求めたらよいのかというのをまたうんうんと考えていたのだが、以前控えたメモの中に「生態学的視覚論」と言うのがあって、ここをあたるかと思い調べていたところかなりよい所だったみたいだ。これはもとはジェームズ・J・ギブソンの著書の邦訳『生態学的視覚論』だった。原題は『視知覚への生態学的アプローチ』。

目で物を見ることは光学や解剖学などで解することができるのだけど、それは目の物を映す(そしてそれを脳で変換する)仕組みが分かるということだ。これも先ほどのユクスキュルの環世界で何かが足りないと感じたのと同じで何かが足りない。目に映らないものについてが分からないのだ。

一方で生態学的視覚論では見えないもの、目に映らないもの、隠れているものが重要になってくるという。ここまで来ると何となく、有無は表裏一体の様な気がしてくる。つまり、「何が見えているのか」を知ることは「何を見ていないのか」を知ることになる。前者がぼくが足りない足りないと言っていた分野たちで後者が生態学的視覚論になる。どちらからアプローチをかけても、行く先は求めたいものなのだろうが、ギブソン生態学的視覚論では生物学から哲学、芸術まで多岐に渡る分野を含んで論が展開されているようだった(芸術に関してはギブソン後のことかもしれない)。包括している範囲が広い方が、学びやすい傾向があるのでこちらから行ってみることにしよう。ある程度の理解ができたら、今度はそれらを数学的に見れないかということもやってみたいなと思っている。これが多分一番難しいのだけど(哲学ですら記号論理学あたりにしか触れることができない)、最近は抽象数学が発展してきているのでその辺でアプローチがかけれないかななどと考えている。

年末までに何かが掴めるように頑張って行こう。

 

#海、または火星の様な地